ものごと0614

ものごとがありすぎるとアウトプットしにくいという状況をわきまえて、最近見たことを津々浦々読みにくい文章で書いてみるよ。


前提1
 制作しても得るところが少ない
前提2
 インプット作業が緻密であることにアウトプットが繊細であることが反比例している気がする



7日(土曜日)
テニスコートコミックの番外編コミック、フォルトの『生きとし生ける野茂』を見る。(→http://tenusugawa.com/fault.html)ナンセンスコメディはコメディをコメディとして消費しないための密やかな反逆のように感じた。Comedy Club Kingのセックス後の男女のピロートーク、女が実はエイズにかかっていたというナンセンスコメディは、今回のフォルトの最終楽章、三の倍数にアホになってしまう病気にかかった女が死んでしまう場面にややかぶる。「私以外の人とセックスしないで!」と叫ぶ女は息を絶え、胸に抱えて男は叫ぶ。「助けてください!」いまさらのセカ中か。小出圭祐やるなあ。
途中の「真性親子ゲーム」もそうだけれど、深刻なはずの場面の周りで観客が大笑いしているのはナンセンスだ。つまり演劇がナンセンスなんじゃなく、その場がナンセンスになってるからナンセンスコメディなんだろう。確かに笑えるからコメディなのに、演劇の中では人が死んでるし、親から衝撃の事実を突きつけられたりしている。(ヨウコウの人には分かるかもしれませんが、とっつぁんの役柄はアメリカ兵にレイプされた女の人が産んだ捨て子の成長した役でした)そして笑いが引きつった笑いになってしまうのも、コメディが下手だから起こるのではなくて、笑えるところとマジになってしまうところのギリギリの線を行こうとしているからなのかもしれない。笑えるのか?ここは笑えるのか?と常に身構えたりしなきゃいけなかったり。危ない架け橋だったりするんだろーが、でも確実に上手いんだよなー。
良い時間の買い物をしました。

(※フォルトは会場が狭かっただけあって、チケット数も結構少なかったようなので印象深かった二場面だけの状況をここに記したり記さなかったりする。

・真性親子ゲーム
 ほんとはこんな名前じゃなかったと思うけれどもいま勝手に名前つけた。20歳になった男の子に「いままで隠していたことがあるの」と切り出す母親。その隠していたこととは「親子ゲーム」という名のボードゲームだった。サイコロを振り、出た目で進み、止まったコマの指示を果たせば親子ポイントを獲得できる。コマの指示は「自分が本当の親ではないと打ち明ける、「でも本当のお母さんはお母さんだけだよ!」と息子に言わせたら5親子ポイント獲得」みたいなナンセンスな物ばかり。負けた方は家を出て行く取り決め。息子はこのゲームで自分が米兵にレイプされた女の捨て子であることを知らされるが、それが母親の演技なのかどうかも分からなくなり、嫌になって家を出て行こうとするが、20親子ポイントためると本当の親子になることが出来るのだと母親に言われる。が、母親が本当の親子になりたいのは実は姉であり、姉もまた実の姉ではないことを知る。「じゃあ俺は何なんだよ!」「我が家のペットよ!」
 いや、本当にこういう劇なんだって。

・ナベアツ症候群女の最期
 3の倍数にアホになって5の倍数で犬になってしまうという不治の病にかかった女。彼女は彼氏との思い出の場所である寄生虫博物館のサナダムシの前で喘いでいる。そこに彼氏が彼のバイト先の店長とともにすっ飛んできて病院に帰ろうと諭すが、彼女は思い出を振り返る雰囲気で「あのときのセックス、すっごい良かった」とか言い始める。ついでに彼氏の持ってるアダルトビデオの題名を読み上げたりする。それを店長がメモしたり。「何メモってんですか!」ついに彼女は最期のときを迎えるが、彼女は「最期のおねがい。おねがい、セックスしないで!」と言って絶命する。胸に抱えて男は叫ぶ「助けてください!」店長は小さなメモ帳に「セックス禁止」と書いてそれを観客に見せながら無言で彼氏を指差し続ける。バックに森山直太郎が大爆音で鳴り始める。「いきとし〜いけるすべてのものへ〜そそぐ〜ひかりとかげ〜」絶命した女をゆする彼氏。駆け寄る母親、あの弟、変態的な医者。指差し続ける店長(ジャイアン)。森山直太郎が流れる中、舞台は大団円を迎え、死んだ彼女を全員が協力して人差し指で持ち上げる。(良く手品とかでやってるアレ。全員で力を合わせれば個々人が両手の人差し指しか使ってなくても人ひとり持ち上げられるって言うアレ)全員が笑顔の中、穏やかにフェードアウト。

なんだこれ



8日(日曜日)
アヴェちゃんと一緒に横尾忠則を見に行く。(→http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html
正直、横尾忠則は嫌いです。好きの部類に入ることは多分死ぬまで無いように思う。まあなんでこの感想も多分に主観的です。
横尾忠則ピカソを見て画家に目覚めたという話が俺には信じられない。そこまで純粋馬鹿(悪い意味での)が、なぜデザイナーという職種をこなせていたのかがいまいち理解できない。デザイナーという仕事が胃がキリキリするほどにキツくて、ドロドロしていて、それでいて空虚に近いというのは私見なんだけれども、デザイナー(イラストレーター)として成功したのなら、なぜ毒を含まない絵画が描けるのかがよくわからない。だから横尾忠則の絵の見方が全く分からなくて自分は混乱したんだと思う。
見方というのもどうなのか、感じ方なのか。世田谷美術館の企画展に横尾忠則がどれだけ関わっていたかは分からないけれども、絵画という手法専門でやっている人だったら、あんな展示の仕方はしないと思う。あの点数を並べるのだったら数多くの作品点数で少ないことを語るだろうし、 絵画に多くを詰め込むのだったら作品点数は絞られてくるだろう、多分。それが全部が全部等価値に並べられていて、どれが絵画でデザインでイラストだか分かりゃしない。その境界線は無くても良いけれども、少なくとも横尾忠則が何を言いたいのかがまるで分からなかったことは確かだと思う。「何を伝えるか」は多分に重要で、「俺を伝えたい」と考えるのはみんながみんな同じなんだけれども、だからっておっさんの裸体のような全作品を見せられて気持ちいいわけが無い。
要するに横尾忠則ファンのための企画だなあとか思ったってことだけども。
横尾忠則のことを好きでも嫌いでもない人が行ったとしても、記憶に残るのは多分「疲れた」というネガティブイメージでしかないんじゃないのか、と考えると結構もったいない展示だと思う。良い展示会場で良い作品もあるはずで、良い顧客もいるはずなんだが。
まあ横尾忠則アンチファンがここに増えたよということは言っておく。

※デザイナーでも純粋馬鹿はたくさんいます。そういう人はおそらく運に恵まれた幸福な方です。どうぞ、大手で大らかにデザインを楽しんでください。弱小企業の糞つまらないデザインを個人デザイナーが他の仕事の合間を縫って不眠不休でこなし、それを人間的に糞つまらないド素人に駄目出しされてまた不眠不休でやり直す屈辱なんか知らない方がきっと幸せです。



9日(月曜日)
篠田太郎と話した。
前から気に入られていて、今回は篠田さんの映像作品と自分の陶芸作品を交換したけども、まあ何ていうかアレだね。自分はずっと赦して欲しかったのかもとか思った。
赦すという言葉はかなり特殊な響きを持っているような気がする。まあ上手くまとまらないけれども、無理矢理関連つけましょうか。Akihabara Attackと。
http://officematsunaga2.livedoor.biz/archives/50660347.html
秋葉原通り魔事件の犯人がスレッドをたてていた掲示板全文ですが、下手すると自分もこういうこと言ってそうだよな、とか考えるとじわりと恐ろしくなったり。「自分が悪い」という言葉は誰も傷つけませんが自分が傷ついてんだよなとか思ったり。自分が悪いという負のスパイラルから抜け出すには自分が居ても良いという許可を与えられる場が必要で、まあその行為が赦すという言葉に端的に現されているように思ったりとかした。赦すというのは現在肯定の一種でもあるけれども、それ以上に魂の容認なのかもとか。
自分は自分と自分の生み出した作品がイコールであるとは毛ほども感じてないので、自分の作品が褒められてもそこまで嬉しくなかったわけです。作品が生まれたのはたまたまだったりして、とか思ったりして。で、そういう姿勢っていうのは作品が自分の子供の位置にあるように考えてるのと近かったりするわけです。作品と自分は親密だけれども決定的に違う、という意味合いで。それはなんでかってゆーと、作品を作り始めたときの自分はもう居なくて、作品を作り終えた自分しかいまこの瞬間には居ないからなのです。だから作品と自分はイコールで結ばれない。けども篠田さんの言ったのは作品は子供でなくナメクジの這った跡かもしれないっつーことで、要するに軌跡な訳ですね。で、軌跡を褒められるのはつまし過去の自分を肯定されることに繋がるのだと。ワーオ!過去は消えて亡くなってないのか!という当たり前のことを再発見したりしたわけです。こういう当たり前のことを忘れてたりするから自分は相当参ってたのかもしれないとかは振り返ると感じたりもしたりしたり。
秋葉原通り魔事件の犯人は赦される物事がおそらく存在しなかったんだろうなあとは思う。赦されるっていうのは、人と人の間にしか発生しないものだとは思うし。Akihabara Attackについて、もっと詳しいことを知りたい人は続きはWebで!
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20080610#1213114352
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_3269.html
http://www11.atwiki.jp/akb_080608/
http://www8.atwiki.jp/kotono8/pages/11.html

その後の深夜に樂焼きをしました。15分で仕上がるカッチョイイ陶器です。自分でも良い仕上がりの作品が多数出たと思いましたが、きょう山根に見せたら「テラボロスwwwレベル低っwww」と言われたので山根にはもう何も期待しません。



そういや3番ギャラリーで展示されていた槙原泰介の展示と、新宿でやってたお杉の展示のレビューもこの際だから書いてしまおうか。忘れぬうちに。
3番GALLERY vol.8 / 槙原泰介「Henry」
(→http://3bangallery.com/exhibition/vol8.html
マッキーの凄いとこは語らないことだと思う。語らないのはすべてを語ること以上の効果を持つだろうけれども、これ以上語らない人を多分あんまし知らない。そして臆面もなく物体の魅力を前面に押し出すのはある意味卑怯でもある。卑怯と言うかズルい。現実に勝てる空想なんか所詮存在しないけれども、現実の魅力が空想の域に足を突っ込む作品を作るのは、かなり勇気が居るように思える。美術というフィールドであることをとっても。
そういう意味合いで多分マッキーは体を張ってるんじゃないかと思った。嫁さん大切にしろよ。

杉藤 良江+山田 悠 『recreation♯01』
(新宿眼科画廊にて)
杉藤は作品が妄想と第六感の狭間で生きてくるのだと思うけれども、なにぶんかなり文字の力を借りないと強度が弱いのだと思う。それは支持体が弱いということにも繋がると思うけれども、妄想というフィールドを直感と経験で紡ぎだす行為には、おそらく言葉が深く関わっているように思えて、だからタイトルは蔑ろにしてはいけない問題なんじゃないかと感じた。
まあ要するにタイトル見やすい場所に置けよって話なんですが。
作品は良かったけれども、いかんせん画廊の雰囲気に迫力負けしてた感がある。もっとボロッチイ部屋だったら作品が生きてくると思うけれども。ホワイトキューブが天敵な作品もあるんだなあとか思いました。
山田 悠のは実際よく分かんないです(><。


自分に近すぎる表現者のレビューって書きづらいな。まあ辛口にしにくいのも原因のひとつだろうけども。

きょうは土曜日です。猫を実家に送還する日です。
あと隣の家がまたうるさいです。いいかげん寝ろ。殺すぞ。