南青山


This is Me, This is You_Roni Horn
(via http://www.ratholegallery.com/)

南青山のギャラリーに写真を見に行きました。
銀座はまだ良いのですが、青山のオサレ感に全く慣れません。
凄いビクビクしながら町を歩いてます。
ダサイ服とダサイ顔しか持ってないし。やだなー。

Roni Hornは凄い面白かったです。行った価値はあったな。
でも週末のたんびに都会に出るが故に、本を買ってしまうのは、
どうにかしないとお金が全然足らないな…
ハルヒ二冊、コミックビームの雑誌、松岡正剛のフラジャイルを購入。
読んでも読んでも『現在』に近づくのに足りる気がしない…。

いま非常に眠いです。

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ロジャー・ゴーバー、キキ・スミス近辺の「おぞましい」言説、そこからリンクリンクしていく「キャンプ」としてのアートの姿勢。に対する自分の視点を眠い頭を振り回しながらまとめてみる。すべては自分のために。
「自分のためだけにだけうたう歌があったとしても、そんな歌はうたいたくない」なんてことをのうのうと歌う宇多田ヒカルを殴り殺して考えよう。外の宇宙と内なる宇宙は深淵でどちらも扉を開けるだろう。
参考文献は松井みどりの「芸術が終わったあとのアート」から

スラッカー・アートはさながら日本で言うならニート・アートにでもなろうか。(定職を持っていないが、持とうと努力もしようとしない人々のアート)ただ日本だとこういう人たちの作るものは決まってろくでもないものに回帰してしまうきらいがあるように思う。まあどうしたって自分の世界を作ろうとして、不勉強なイデオロギーに落ち込むほど醜悪な(本当に醜悪な)ことも無いように思われるけれども。
スピルとかあるいはスキャッターと呼ばれる表現方法(ものがばらまかれていたり、小さなオブジェが散らかっている展示状態)は、確かに疑心暗鬼を募らせるしかない現実に対処するための有効な手段のような気がする。取捨選択とお気に入りの独裁国家。「かわいいは正義!」というキャッチコピーを掲げてもあながち間違いでもない。カレン・キリムニクのキャッチコピーとしてもそのまま使えそうだ。
ただ、トラウマ的視点をそのまま持ってくるには日本は透明な国でありすぎる気がする。男と女といったイデオロギーが通用しない人たちの群れ(既に民族ですら無い、ただの集団)、自分に正直に素直になっても自分からは何も沸き出してこないという喪失感の無い喪失感。あとは貧乏人が際限りなく我慢をしてしまう構図とか。(今月号の広告批評での橋本治のコラムはまた面白かった。我慢してしまう人は我慢が常態であるという貧民層であること。「我慢をする」ということを工夫して乗り切ってしまう貧民層は、上の人たちが「我慢することを知らない」ということを想像しないんじゃないかというひとつの提言。なんか押井さんの「常態の戦争」「戦争ではないという言葉でしか表せない平和」に通じそうだったけど、まだうる星やつらの映画を見てないので言及は避ける)
キャンプの性質のひとつに、「ひとつのものを通して他のものを想起させる」という特徴があるらしいですが、それは自分の作りたい物にきれいに当てはまります。KOSUGE1-16+アトリエワン+ヨココムが体感型アートに含めたいと言っていた「毒団子のような」後を引く気持ち悪さ。これは表面の綺麗さと内面の穢さ(もとい気付かないかもしれない違和感)を同時に両立させたいという気持ちの現れでもあるようです。それは世間一般には「皮肉」と言われるような言い回しなんでしょう。
カレン・キリムニクが、意図的に無いにせよ権力への無関心さから始まったアートが、権力の末端にあった大衆の美しさをつまみ込んで引き入れた過程は、今でも新鮮な行動として評価できるように思えます。ただ、フォスターが「大きな物語」に「小さな物語」を回収しようとして失敗したように、自分の中にも「大きな物語」に対する憧れと羨望が渦巻いています。それは会田誠の「四畳半の情けないダンディズム」に回収されるような気もしますが、なんとかして戦中の日本の親密さを、「大きな物語」のパロディー(もしくはテント)を通じて回収できたら、かなり楽になるのではないかと考えるのですが。まあ無理だろうな。
「大きな物語」と「小さな物語」と日本語で書くと、なんだか対立表現のように感じるけれども、実際この二つは対立表現じゃなく、またどちらがどちらかに回収されることも無い、全く次元の違う存在なんだとは強く感じる。「小さな物語」で生きるしか無い自分たちにとって、私的な日常と、ハルマゲドンを仲介する社会について考えるのは、酷く億劫でまた醜いことなのだと感じるけれども、その社会から美しさを引っ張って来れる人がその役目につけばいいんだろうな、とは思います。適材適所。
まああとは小難しいこと考えて文章をだらだら書ける人、とか、ね。

眠いのでここまで。>