地面と人

アメリカの現代舞踊の創始者の一人、マーサ・グレアムは芸術家についてこんな言葉を言ったことがあります。

芸術家とは言うものは喜ばないのです。どんな時でも其処には満足っていうものは存在しません。
そこにあるものは、より私たちをウキウキさせまた前々と進める‘奇妙(queer)で’神がかった不満、と神聖な不安しかないのです。


この言葉ではじめて、越前で見た展示の中の人物、山内伊右衛門の生涯を文章化してみたいと思います。陶芸家という「技術者」が、土地と友に生きた故の生涯が、自分的にはちょっと壮絶でした。この展示には今後とも印刷物が出る雰囲気はないので、勝手にデジタルに変換します。



まずはざっと、山内伊右衛門の夢と生涯。

 越前町小曽原集落の中心部に大きな石碑が立っている。漢字ばかりで読むにはなかなか骨が折れるが、碑文には山内伊右衛門(1858~1941)の遠大な計画が記されていることがわかった。
 明治25年(1892)、伊右衛門は鉄道敷設・舞鶴軍港用の大型土管(直径60cm・重量75kg)の製造を一手に請け負ったが、焼成に失敗して家運が傾くほどの打撃を受けた。
 土管製造に失敗した伊右衛門だったが、やきものづくりをあきらめることはなく、明治30年(1897)高級色絵当期製造を目的とした「合資会社日渉園」を資本金1万円で創設して生産を始めた。
 伊右衛門には大きな夢があった。春樹・秋夫・文世の優秀な3人の息子たちに高度な教育を受けさせ、彼らの協力により越前焼きを海外へ輸出しようと計画していた。  長男、春樹(1883~1946)は、石川県立工業高校で板橋波山からアール・ヌーボー様式を学んだあと、大阪高等工業学校窯業科を卒業する。春樹が石川県立工業学校で学んだ図案集は、福井県等磁器従弟養成所の生徒、前田泉岳に伝わった。次男、秋夫(1885=1918)は、シカゴ大学経営学を学んだが残念ながらスペイン風邪にかかりシカゴで死亡した。三男文世(1888~1933)は東京美術学校彫刻科を卒業したあと京都市立工業研究所に勤務した。
 伊右衛門は、「うわぐすりや焼成方法」「経営と海外輸出」「陶磁器のデザインと成形方法」をそれぞれ学んだ三人の息子たちが協力すれば、毛利元就の「3本の矢」のごとく「最強の産地_越前焼」が産まれると考えた。
 しかし、「合資会社日渉園」の経営はふるわず、わずか10年で解散。3人の息子たちが高度な知識を身につけた大正時代初期には、すでに父の経営する窯は廃業状態であった。全ての財産を使い果たした伊右衛門は、昭和8年(1933)隠居し、昭和16年(1941)84歳でこの世を去った。


ここで伊右衛門は死にますが、伊右衛門の夢を愚直に守り続ける長男、春樹の人生はまだ終わっていません。


 福井での活躍の場を無くした春樹は、日本陶料株式会社・栃木県大山田村陶器学校などに勤めたあと、大正12年(1923)年手当1400円の高級で三重県工業試験場窯業技術者嘱託となり、大正15年(1926)萬古焼の産地に新たに創設された三重県工業試験場四日市分場(後の窯業試験場)に勤務を命じられた。春樹は地元の萬古焼窯元にうわぐすりの調合方法やアール・ヌーボー様式を教えた。
 春樹は昭和5年(1930)、47歳で三重県工業試験場四日市分場を退職すると、四日市市川原町に工場を建てて釉薬の製造と販売を始めた。しかし、昭和恐慌と太平洋戦争突入寸前の不穏な社会情勢の中では思うように利益が上がらなかった。昭和14年(1939)頃工場を閉鎖して三重県上野市で2年間ほど釉薬の製造と販売を行ったあと、京都へ移り住んだ。昭和19年(1944)、還暦を過ぎた春樹は敗戦濃厚な状況を省みず満州開拓団へやきもの指導に出かけた。極寒の地、満州で肺炎にかかった春樹は、昭和21年(1946)1月6日息を引き取り、伊右衛門の夢は終わった。



この他にも、三男の文世も若くして亡くなって、春樹の娘と息子も11歳と21歳という若年で亡くなっています。太平洋戦争後に生き残ったのは甥だけでした。
運が無い山内伊右衛門の家系ですが、窯が潰れたのにはある理由があると思います。ひとつは越前では良い土が取れないということと、もうひとつは「名前」がなかった、ということ。



越前では良好な(真っ白な)磁土が取れなかったのではないかと思います。残っている器を見てもややくすんだ磁器質で、九谷焼などと比べても明らかに見劣りします。 その九谷焼に市場を独占されていたように見えるのが、「産地偽装」です。

伊右衛門が売り出した越前器のパッケージングに九谷焼とラベルを貼っていた「産地偽装」は、つまりそれだけ「越前焼き」という名前が売れなかったことを意味します。
明治から後の磁器産業は、全国消費量の90%が九谷や有田からという凄まじいもので、そういった時代性を見ても伊右衛門の売り方はタイミングが悪かったと言わざるを得ません。

陶芸という「民芸」がアートにも産業にも割り切れない、曖昧なものなのですが、それをどうにかして理解したいという矢先に出会った、壮絶な人生でした。
前から、大地と交信する、という意味合いで陶器を語る人が多いのに疑念を持っていて、というのは器っていうのは大地から火を用いて切り離して物体にしているもので、どうも大地と『相互』交換な感覚がないからなのですが、全然言語化できないので今日はここまで。