リアルのゆくえ

買って読んだ。
エキサイトしすぎて徹夜一晩で読んだ。
「テヅカ イズ デッド」もエキサイトして徹夜で読んじゃったので、それと同じような興奮状態が得られたと思う。脳内麻薬ですね。
感想は「エキサイティングだった」というだけで、ここから下に書く事はコロコロ変わる思考実験の最初のきっかけです。あんまし考えが固まってないけれども成文化してオープンにします。



前提
大塚英志東浩紀には始めて出会いました。はじめまして。
大塚英志は「サイコ」で出会ってはいましたが、それも大学の部室にあった何巻かと、古本屋でさっと流し読みをした程度で筋を追う事も満足にできていません。一応最後まで読み通したと思うのですが、あんまり覚えていない。
東浩紀の「動物化するポストモダン」は受験の時期にとても読みたいと思ったけれども、自戒してそのまま忘れた本でした。今度買って読んでみます。


・読んでいて思い出したのは会田誠の作品「二次会はつぼ八!」
「なんか今の若い作家ってそういう空気感無いよね…」というのが「つぼ八」なのだけれども、これを画集に載せる選択をした会田誠は、やっぱり生真面目で自分は結構好きだと感じる。

http://blog.livedoor.jp/zamza363/archives/51190179.html
これを思い出したのは大塚さんの「苛つき」から。この本は東さんに大塚さんが延々と苛つく、というだけの対談なのだけれども、東さんのあとがきを読んだ時に、その「苛つき」は頂点を迎えるのだと思う。そして私はその「苛つき」が結構共感できる。

なんか男女の情景。男が「こうなんでしょ?」と女の言葉を代弁して、女は「それは合ってるんだけど、でも違う!」と永遠とだだをこねる情景。男は賢いから言葉を重ねて議論を発展し、的確に感情を表そうとするけど、女が望んでいるのは「それは合ってるんだけど、でも私があなたにわかって欲しいのはそういう事じゃない!」という主張で、そして女のその「わかって欲しいこと」は一切コトバにならない。そして実は最近の私はその女の方に共感を覚える。
(ここでは男が東さんで女が大塚さんなのだけれども、別にこれは普遍性のある男女意識を規定したいわけでは全然なく、伝わるのならBLの「攻め」と「受け」でも良いと思う。というかそっちの方がしっくりくる)

自分の中では共感は信頼する事に繋がっていて、だから大塚さんの方が信頼できるのだけれども、実はねじれた事に、このあとの大塚さんに私は全く期待できないでいる。だから私は東さんの「このあと」に期待していて、にもかかわらず東さんを全く信頼していない。信頼していて期待しない、期待していて信頼しない、というのが同時に起こるのが自分でもちょっと面白いけれども、それは自分が好きで信頼している会田誠や鯉江良二にも当てはまってくると思う。

会田誠と鯉江良二は年代もスタイルも分野も全く違って、それを括ってしまう自分が少しズレてるとは思うのだけれども。


会田さんが「四畳半の情けないダンディズム」をニヒリズムで浮かばせて、だからこそ主体性が無いまま趣味的に作品を展開して行くのだけども、そこに将来性はあんまりない。会田さん自身が言っていた言葉に、「現時代性を常に読み取って、…そこでなおかつ趣味的に作品を作っていった時に、その作品に関する事件があとから起こるというような事があって、(→紐育空爆之図)だから意識的に時代を感じさせる作品を作ろうとしなくていいんじゃないか」というようなものがあって、それに私はすごく共感する。時代性にコミットしようとする作品はどうしても何か引きつりのような無理さを感じさせて(会田さんはそれが日本人という民族性の問題かもしれない、と仮説で言っていた)気持ちよくないと思う。

ただ、会田誠は「戦中」からイメージ(等)を持ってきて趣味的に展開していて、それは大塚さんに言わせれば「公的」なのかもしれないけれども、最近の会田さんは「四畳半の好々爺」になりつつあるように感じる。そしてそこに「公的」なものは多分なにも無い。

「四畳半の好々爺」というのは要するに茶人であるのだと思うのだけれども、茶人であるという事は結構自由という事と、作法を学んだ知識人であるという事の両面があるように思う。作法というのが、多分東さんの言っていた「システム」なのかもしれないのかもと漠然と考えて。
「結構自由」というのは大きな物語に縛られなくて孤独、という面と、小さな物語を作っていける創造性、があって、妄想力が飛躍できる良い場所だと思う。そしてたぶん会田さんにとっての作法は、日本における「芸術」なのだと思う。「アート」でなくて。
会田さんが自分の上の世代にコミットしたいんじゃ無いか、というのは仮説なのだけれども、日本画技法で描き、「戦中」の事を頭がパンクするまで勉強するのは(→デザイン)そういう中に入りたくても入れなかった、というのが大きいのか、どうなのか。村上隆が絶望的にオタクセンスが無くて、オタクの世界にコミットしていこうとするのとちょっと似ている感じがするのだけれども。
(忘れないようにメモ。おにぎり君とDOB君とかをちょっと考えてみたい)


閑話休題

大塚さんのディスコミュニケーションにおけるコミュニケーションにはすごく共感できて、というかそういうコミュニケートで生きながらえている自分がいる。だから東さんのディスコミュニケーションを相対化する態度に「苛つく」。でもそうした時に、大塚さんが期待できないのはどうしてなんだろうか。というのは、大塚さんが結構閉じてる印象を受けるからなんだろうか。開いているようで閉じている印象。知識人とその子供で閉じてる平和な家庭。
東さんは「どうしようもないひとたち」をどうにかしようとしていて、疲弊しているのが対話の時系列を追うとわかる気がする。「どうしようもないひとたち」を他の価値観にコミットさせる、というのがディスコミュニケーションも含めたコミュニケーションで可能とする事に絶望しているのかな。もう一度読まないときちんとわからないけれども。
そして「どうしようもないひとたち」をシステムで柔らかく保護してあげようという事なんだろうか。破裂しないように。

ここにひとつ引用します。
”貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ・・・そういうものは富や強さや傲慢や規律によって矯正すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に浸みて感じている。”
http://blog.tatsuru.com/2008/08/05_0958.php

そしてこの引用に私は共感と期待を覚えます。
そして東さんの考えるシステムは「涼しい」のだろうか?という疑問を残して。
こんど東さんの本を読んでみます。




最後に
「四畳半の好々爺」どころか「芸術の好々爺」の印象を受ける鯉江さんですが、やってる事に期待も将来性も感じなくて、考古学的興味しか食指が働かないはずなのに、なぜかいつも気になってしまう、というのが鯉江さんです。
茶人でもあり芸術家でもああり、ジャズ(!)というとんでもない単語を飄々と使ってしまう鯉江さんを信頼するのはいろんな意味で怖い事ですが、それでも気になるのはそこからパワーを受け取れるからなんだと思います。
大塚さんと東さんの私の感じ方の違いはそこで、要するに大塚さんからはパワーが貰えて行動できるけど、東さんからはパワーが抜かれる。という事なんだと思います。へにゃへにゃになる。
それが涼しくなるのはまだ考えてないからわからない。

とりあえず、興奮する本でした。ありがとう。