じしょう


GEISAIに出展した事をやや後悔しつつ、家に引きこもってばかりでもなんですので、
明日は多摩ZOOに行って動物見てきます。ひとりで。

GEISAI出展前の袴田ミーティングのテーマは「社会との関わり」でした。
以下に書くのは自分の最近の考えと姿勢の文字化。


「社会」とされる諸々の事象、公共性、に『向けての』作品づくり、
という行為は願っても達成されないという想いがある。
公共性に向けて発したと自覚した途端、その作品は「健全な」作品となる。
そして健全さに「おもしろみ」は宿らない気がする。

しかし、社会と切り離した作品が、逆に不完全な健全さを備えてしまう
という事ももちろんある。
(不完全な健全さ=神話的世界、俗の無い世界)
では「社会」と作品の関わり合いをどうするかという問題で、私は発信者が
社会についての語る言説を持っていれば、それで義務(?)は
果たせるように感じられる。
要するに作品を作る人は「社会」への興味をひとしきり持っている上で、
作られる作品はその「社会」と無関係(?)に存在する、というような関連性。
(?→社会に対する義務感は国家論に回収されないように注意しないといけないとは思う。/?→社会と無関係な「意識で」存在するという意味で、社会から完全に切り離されるわけではなく、そうではなくて、社会に向けるという「重荷のようなもの」を切り離したいという意向だけれども)


ここから以下は最近の作品作りに関しての意識。

社会から素材を集めて来て作品を作るという行為はきわめて皆無であると同時に、苦手でもあるのですが、それにも増して自分の中から湧き出てくる諸々の形は、現実世界にその形を現前させたいというある「希求」を伴ってくるように感じている。
自分の内からでて来たはずのものに支配されるというよくわからなさ。
しかもそれに何の意味があるかが皆目見当がつかない。

そこには快楽が無く、苦痛しかない。自分の内から出て来た形を現前させるために体を酷使して作品を作るけれども、作ってる時も作り終わった時も一向に快楽はやってこない。けれども「義務感」がある。自分の内からくるものに奴隷のように働かされてる。そしてそれに意味などない。

だからGEISAIでコンセプトを聞かれても答えられるわけがない。
「よくわかりません」



そんで自分の内から来たものだから自分しかわかんないんだよな。
良いのかそれで。良くないよな。


とりあえず油絵科での呑み会は楽しかった覚えがないですという話でした。
なんか最近我慢できないからつまんない話とか聞いてると寝ちゃう。
私が「お酒〜」とか言ってる時はお酒が欲しいというより、
お酒のおいしさ以外「おもしろみ」が周りにないってことですよ。
つまんない話聞かされてたら漏れ出るあくびが止まらない。

にゃー