Tue, Nov 03

  • 01:13  はっきり言えば味の好みが他人に伝えられないように、感動した想いを相手に伝えられるのは幻想だ。ロマンティズムを打破しなければ持っているはずだった力が失われる
  • 01:18  意味のあることは有限。意味の無いことは無限
  • 01:27  無価値であることと無意味であることを突き詰めても、性善説や現世肯定(生の政治)の地平にたどり着けると思う

左義長の時に、道祖神の祭りと結合して子供が卑猥な囃子や悪戯を行ない、道切りや金銭の強要を行なうが、これは縄文以来の男性秘密結社員の訪問と暴力行使に対して、非訪問者の側が饗応接待によって「お引き取り」を願う風習が起こって以後、子供の遊戯にその形を留めたものであろう。同様な初期栽培農業以来の起源と思われる風習の年中行事化は、世界の文明国にも多く残存している。例えば今日の合衆国の都会でも、万聖祭には子供が化け物に仮装し「悪戯か接待か(トリックオアトリート)」(いいものくれなきゃ暴れるぞ)を連呼し家々を訪れ、菓子・金銭をもらうことは、むしろ一般的に見られるところである。__既出の「そそぎ節」のソソギの語も、セビル(攻める)攻撃性とセガム(急ぎ迫る)単刀直入の直接的身体表現との類縁語で、セセク・セセガム・セセルの急迫の意味を共有しながら、さらにテンポの急速度を示すソソクルと心を浮き立たせるソソルの意味を加えたものであろう。「そそぎ節」の歌詞が暴力行使の予告による脅迫を含みながら、全体として陽気明朗快活であるのも、攻撃性が実は根底のアマエから出るからであろう。女性が男性に挑みソソル挑戦的態度も、子供や下級人がおとなや上流人に甘えセビル攻撃性も、同じ他者依存の甘えの地盤に乗ってのみ可能であったと思われる。
― 『日本反文化の伝統』 上林澄雄

この論議は日本人という民族が、古くから退行(レグレシオ)を好んで選択した、という説と関係がある。古来から少年少女に神聖と、それに伴う性の感情を持っていたことがこの論議の中で明らかにされるが、これは特に危機や恐慌に直面して起こる原始反応として知られ、またヒステリー反応に特徴的である。この道祖神の祭りの囃子は、例えば「娘貸さなきゃ南瓜もぐョ」や「娘貸せ、親爺、貸せて(貸せというのに)かさなけりゃ、サァサ、壁破る」などの歌詞で、これらに残存する脅迫は、まったく「ダダをこねる」子供の無理な「せがみ」と同じ心理のものである。

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