キラッ☆

ちょっと仏教用語調べようと思って挫折した。
何だこの難しさは。さっぱりわからん。
漢字大杉というか古文が読めないと足を踏み入れられない世界なのか。
頭がこんぐらがる。

調べたかったのは二つの用語。


無生法忍→
無生の法理を認証すること。一切の存在が空であり、実相であると理解したならば、一切の存在が不生不滅であると認められる。むしろ、不滅よりも不生の方が強く認得されれば、それが確信される。なお、「忍」とは、忍可するの意で、認知に同じである。無生忍ともいい、三法忍?の1つである。

火の鳥の鳳凰編で我王が悟ったのがたぶんこれ。

火の鳥 鳳凰編

火の鳥 鳳凰編


オレは生きてるけどぶっちゃけそれにあんま意味ないわね、
という悟りの仕方だと思われる。
まあ同時に死ぬことの意味も無くなるわけですが。
「これでいいのだ」状態ですね。



あとは無為の快楽
因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないことが快楽なのらしいですが、どうもこの感覚が自分にはわからなくて調べてみたかったんですが、やーさっぱりー言葉がーむずかしすぎてーわからんですねー。
しかし因果律に支配されない永遠の狭間に捕われることが快楽なんだろうか?この二つの仏教用語は昨日貼ったリンク先で、幽霊を説得するために用いていたものなのだけれども、しかし幽霊らしくない幽霊の話だったな。


いやまあそんなことはどうでもよくて、ランカ・リーですよ。

死ぬほどリピートして聞いてる自分がたまらなく気持ち悪いんでどうにかして下さい。
で、この中の歌詞に「けし粒の命でも、私たち瞬いている」という部分があって、まあそこから脳内麻薬が火の鳥の鳳凰編とナウシカの最終巻の神との問答に青い電撃を迸らせながらハイパーリンクしたわけですね。
ちっぽけな存在である私たちにあんまし意味は無いわけですが、それでも瞬きつつ光っているのは恋愛のなせるワザなんだと思います。ランカ・リーの歌の中ではね。
ナウシカも神が「生命は光だ!」と言ったのに対し「ちがう!生命は闇の中のまたたく光だ!」と言っていて、まあ「ナハハ!結局光なのかよ!」と突っ込みも入れたくなりますが、ナウシカの物語の中の「神話」に組み込まれようとしていたナウシカの最後の抵抗が「またたく」ことなんだと思います。滅ぶことも予定に入れた生命を生きることはある意味で当然なのですが、それを日々考えながら暮らしていくのはまあまあ憂鬱です。んで「無生法忍」を悟りつつ生きていければ良いんじゃないかと。なんか文章がなあなあだな。



どっちにしろ手塚治やらなんやらのおかげで「無生法忍」という考え方はスッカリ一般化してポップミュージックの歌詞にもなりましたよ、という話でした。