Wed, Dec 30

  • 01:59  “自我が存在しない”という信仰は絶望ではなく、古典的な心の哲学を延命させるために無くてはならないものだ。相互作用としての生と死を見つめた時に、初めて数字で見える心を確証出来る。だが実際、そんな心などくそくらえだ
  • 02:03  ゾンビ人格でない、という確証は常にそれが人間であることという認証を受けるがために自我というややこしい概念を提唱してきていた。おしらむべくは意志のベクトルの客観性のなさだろう。(あるいは主体性のなさ)死は存在しないが、恐れは存在する。論理的にエントロピーを無駄にするという恐れが
  • 02:08  生存する→構造を主体化する→“物理化”する→構造が客観化する→死滅する//召還されるのは移ろいゆく極小の宇宙であり、それはどうしようもない複合的な機能を持った構造として現存する。生かす道具は同時に殺す道具であり得てしまう。こうしてさざ波のように生物(構造)は呼吸する
  • 03:02  Photo: Vittore_Carpaccio_079.jpg http://tumblr.com/xww52h1c6
  • 03:50  例えば絶望が数値化できる“ぶん”だけ金銭に変換できたとしたら、不幸な人々は絶望という働きを数値に直すためだけに単純化するだろうか。
  • 03:58  もちろんのこと、「発言しないという選択の発言」は非常に重要だ。(おそらく近現代の議論に欠かすことができない修辞学)発言できない状況、状態を的確に表現するならば、それはもはや発言よりも重みを増して(更に免罪符を得つつ)機能するだろう
  • 04:02  エントロピーが増大する方向に向かう(時間が進む)ときに、エントロピーが連続して戻る確率(時間が戻る)を無視して良い、というのは人間尺度のことなのだとしたら、“退屈さ”や“興味深さ”にも無視して良い尺度が存在するはずではないだろうか?

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