雑感と感想、村上隆の卒論から
村上隆「美術における「意味の無意味の意味」をめぐって : アウラの捏造を考察する」
- 美術の「無意味の意味」とは、意味を付与する事によって、延命を図ってきたがゆえに行き止まり的な状況に陥っている美術を、意味から解放し、再びその危うさゆえのパワーをもたらすこと。
- この考えは椿昇より与えられた。
- 「物語は終わった」と書くことそのものが物語の最たるものであるというパラドクスを抱えつつも、当時の私が目指していたこの“終わり”とはなんであったか。それは、その物語が必然的に受け持たざるを得ない、序文、本文、結末という定められた流れそのものを解体してしまいたい欲望の現れに他ならなかった。(それは映画においての物語の解体の前進がもはや進みようが無いことを思うとき、せめて、時間軸によってそれほど拘束されない美術において、物語のバラバラ死体を見せることしか美術の存在価値がないのだという極私感による。)
- 「クリエイションの発言の所在地」
- アイデンティティの不在にこそ、日本美術の現状があるかもしれない。
- ミニマルアートは作品の要素を切り詰めたゆえの結果として、絶望的なロマンティシズムを獲得した。
- だが、作家は作品を通してのみ危険を冒せるのだ。
- 椿昇(エステティック・ポリューション)
- 無意味、作品の強度、チープな素材
- 椿昇(&川俣正)は西洋的なコンテクストを意識的に断ち切っている。かといって、日本の独自性を打ち出している訳でもない。なぜならば、日本及びアジアの独自性という思考こそが西洋とわれわれを相対化させるものであり、西洋を絶対的定点として必要としているからだ。それは、あくまで西洋美術の特異点であろうとした具体との絶対的な差だろう。(この点については、もの派もまた具体の系列に属するものと言わねばなるまい)
- 極限にまで個人的な表現のモチーフを、ナショナリティや美術を取り巻く状況論を全く捨象した次元において、あくまでも一人の個人における表現として突き詰めたとき、真に解放された無意味の意味が現出する。
- (しかし、ここで意味をつかみ取ったとたんに、またそれを捨て去る力が必要になることは言うまでもない)
- “シーブリーズ”
- アウラは存在しない/必要としない。
- 美術が(私の信じるように)「表現」であるならば、それは「人生」であるのが当然だろう。
- 解放された無意味の意味→
- 個人性を突き詰めた地平にこそ立ち現れたもの
- バリー・X・ボール
- 構造の無意味さを美術的「美」のレベルまで持って行くことが、私の日本画と現代美術をつなげる個人的仕事と考えている。
引用ここまで
太字は編集者による強調。
感想
感触は、素直で大胆、自分の衝動と信念に率直であり、初心を貫き通している、といったものでした。感動的な出来に仕上がっていると言えるかもしれません。
もちろん論文の優秀さと感動的かどうかの度合いはまったく関連がありません。また、感動的という言葉で括ったら村上隆に非情に心外だと思われるでしょう。この論文の主題は、表題にもあるようにアウラの否定、及びアウラの否定によって、果たして強い美術がたち現れてくるのか、というところにあります。
引用には載せていませんが、村上隆はこの中で日本の中にあるシステムに対する強い憤りを表出します。美術予備校→美術大学→社会の中に設定される美術というジャンル→美術評価の現場、などに対して、強い閉塞感を覚えていることを表明し、そこを足がかりに「物語を終わらせるためにどうするか」を序文に設定しています。
村上隆の言う「無意味の意味」は(私感ですので恐らく正しくはないでしょうが)要するに、戦後足掛け(実際は戦前から続いてきている)美術の評価体制のなかに蠢く、「感動的」や「魔術的」や「詩的」や「社会的意味」や「学術的意味」を引きづりおろし、かつての美術が持っていた(と思われる)無意味さ、に引き戻すことに意味がある。と言っているのだと思われます。かなりなパンクです。
もちろんその乱暴なまでの無意味への帰還は美術の評価だけにとどまらず美術の制作にも及びます。この論文は作品活動とセットで提出されましたが、その作品はどれも無駄に意味を充足させ(ばかばかしくなるほど白々しく意味を詰め込み)、かつ「人種的テーマ」や「絵画の物質性」などのご高名の方々が好かれそうな主題を、美術予備校の技術を存分に発揮する学生の手を借りて行なわれます。わりと凄い皮肉です。
もちろんそれだけではなく、作品とその空間に人を食い込ませることによってパーティを弾けさせ、無意味のパワーを感じ取ったり、工学的、機械的な完成度のものを戦略的にアート界に解き放つなど、数多数多の手で作品を作っている(た)かんじです。
序文で多くを語るのは、ロマンティズムの廃絶です。ミニマルの壮絶なロマンティズムを否定し、アウラの魅惑的なロマンティズムを否定し、そのロマンティズムは意外なことに「人生」に落ち着きます。要するに座って半畳寝て一畳ですね。美術が村上隆の信ずるように「表現」なのだとしたら、そこにたち現れてくるのは個人の痕跡だけなのかもしれません(大げさな大義やロマンではなく)。この考えは後のブランドとの提携に繋がってきて、そういった意味で村上さんはブレてないなあとかは思います。今はどうなのか知らないけれど。
単純な感想はこのようなところです。終わり。